あのときの女の言い方は、日本語では「いく」なんだけど、英語では「come」。これは事実だ。
さて、どうして「go」でなく「come」なのか。 辞書によると「go は出発点を中心に考えるが, come は第 1 に話し手のほうにだれかが移動してくる時に用い, 第 2 に相手を中心にして相手の思う場所へ移動する時にも用いる; その時, 日本語では「行く」になる[研究社新英和中辞典]」となっていて、その意味では同じこととなる。
さて、それではどこに「いく」のだろう。辞書の説明を借りれば「相手」のところに「いく」ことになるが、さてそれでは日本女性の「いく」は相手のところに「いく」ことなんだろうか。それとも至高の状態に「いく」ことなんだろうか。もし後者だとすると、英語の「come」は相手の男ではなく、自分が目指している至高の状態、ということになるだろう。
女の自己中心性をベースに考えると、それは大いにあり得ることだ、と思う。
可能性としては、ああいう時には「いく」というのだ、「come」を使うのだ、という学習をしているから、とも考えられるが、そんな耳学問があの至高の状態で通用するだろうか。
やはり、女の自己中心性からくる至高の状態への遷移を表すことばと解釈するのが最適であるように思われる。