Planet Earthの3枚目に"but olds and weaks are ..."とかのナレーションで骨になった動物の姿が写されていた。自然界ではそれはもっともなことなのだが、人類は、その知恵によって人工物のアクセシビリティを高める工夫を行い、老幼であっても障害者であっても、生存し、生活してゆけるような生活環境を構築している。それはそれでいいことなのだとは思うのだが、自然淘汰という進化の考え方からしたときには一体どうなのだ、という疑問がわいてくる。
高次なレベルで統合的に考えれば、他の動物と異なって人類は自然体としての己とそこを取り巻く人工物との合体として生存しているのであり、その両者が連携して進化することによって、自然体としての己の身体の進化を文化的進化によって補填しながら生きているのだ、ともいえる。
そう考えると、人類における進化は身体性を人工物によって補填する形で、身体進化と人工物進化との連携的進化になっている、といえるのだろう。
その意味では人工物発達学ではなく、人工物進化学というべきなのかもしれないが、どうも進化という考え方がしっくりこない。evolutionではなくdevelopmentではないのか。個体としてのdevelopmentだけでなく、種としてのdevelopment。まだ結論は出さないが、人工物のカテゴリーの変化に適応的な考え方を導入するからといって、短絡的にevolutionと言ってしまっていいのか、そう言うべきなのか、まだ疑問に思っている。