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もじゃりんの日記

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2010年05月31日
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愚劣な平等主義

カテゴリ:カテゴリ未分類

結論からいえば、能力に関する平等と権利に関する平等を混同すべきではない。前者は科学的に検討すべきことで、後者は社会的に規範を決定することだ。

 

起源をたどれば、おそらく戦後の民主主義普及時代に生まれたのだろう。何が何でも平等だ、という愚劣で科学的根拠のない平等観が、おそらくは、特に社会主義や共産主義にかぶれた教師や運動家あたりからではないかと思うのだが、広まってきたように思える。まあ起源はどうでもよろしい。ともかく愚劣な平等主義を殲滅すればいいのだから。いや、起源を知ることが殲滅に有用であるなら、それを追求すべきではある。

 

ともかく、愚劣な平等主義は、能力の平等と権利の平等を混同している点が愚劣なのだ。権利の平等は、社会が決めること。だから本質的に人間が持っているものではない。社会的な規範というものは、合意、あるいは強制によって作り出される。したがって平等を旨とする方向性が、近年は暗黙裏に承認され、その方向に「文明」という強制的な力が働いてはいるものの、社会や文化によって、平等な権利を認めない、ということもある。歴史を見ればそれは明らかだ。また「どの範囲まで」の平等にするか、ということも社会的に決定される。

 

現在の権利の平等は、基本的に「人間」の範囲と暗黙裏に合意されている。哺乳類であっても、調子よく「生き物はみんないっしょだよね」といわれつつ、不要になったり邪魔になったりすれば処分される。人間と同等な権利など認められていないからだ。結局のところ、権利の平等はパワーに裏打ちされていることが多い。平等でありたい、と思うものたちが、自分達のカテゴリーに対する平等性を主張し、それを勝ち取ったとき、はじめて権利の平等は保証される。だから安穏としている人たちをも含めた人間としてのカテゴリー化を行うことによって、戦闘的平等主義者はその権利を勝ち取ってきた。共産主義においては、そのカテゴリー化は「人間」でなく「労働者」であった。だから労働者でなければ反革命であり、罰を与えねばならないものであった。

 

現在でも、人間はみな平等な権利をもつべきだ、と思っていない人たちも、あるいはそうした社会も存在しているだろうと思う。特定の宗教観が強いところなどはその一例といえる。

 

僕自身、どう考えるかというと、権利の多相性ということで整理したい。ようするに権利といってもひとくくりのものではなく、どういうことに関する権利か、ということだ。たとえば選挙権を行使できる年齢があるということは、その社会では権利を制限しているということだ。その場合の「相」を年齢のこと、と考えるべきではない。◯◯に対する△△に関わる権利、と表現するとき、選挙権は◯◯のほう、年齢が△△のほうである。ここで◯◯も△△も多種多様であり、さらにその組合せも多様である。一般に△△は身体特性(年齢など)であることが多いが精神特性(信仰など)であることもある。オリンピックに参加できるのは身体能力の優れた人たちに限定されているのは、身体特性に関わる権利の制約の例である。市民マラソン大会で誰もが申し込めば参加できる、としているのは、その権利の制約を撤廃しようとした例である。

 

権利の平等のほうは、権利を行使できる側に受容してもらった方が気持ちがいい。当然だろう。社会から排除されるよりは、受容されることを望むのは、社会的動物としての人間にとって自然な感情だからだ。もちろん、へそまがり的に、社会性から離脱したいと望む人間もいるから、「すべての人が」と安易に言うことはできない。しかし、そういう人たちも、余計なお世話という言葉があるように、下手に社会が関与してくるのを嫌がるという感情を維持できるような無干渉な状態を望んでいるという意味では、結果的にその社会に受容されていることになる。もちろん、絶海の孤島で一人暮らしをしていれば別である。

 

そんなわけで、◯◯と△△との分類整理、さらにその組合せについて整理しなければいけないな、と思っている。こうしたことを「研究」として助成金でももらってやれればいいんだけど、まあ現在の助成金システムというのは、あまりこうしたテーマを受け入れてくれないので、むつかしい。まあ申請書の表現力にもよるのだが。それとも助成金を狙うより、本でも書こうかな。

 

さて、他方の能力の平等だが、これは「基本的にない」と考えるべきだと思われる。これは科学的に立証しなければならないが、たとえば生まれつき人間の能力はすべての特性に関して同等ではない、という仮説が立証できるかどうか。もう少し識別的な表現が必要なようには思うけど、基本的にはこの仮説に集約されるのだろうと思う。

 

常識的には、それは当たり前ではないの、と言われそうだが、さて、その認識がちゃんと社会的に制度化するところまでつながっているかどうか。

 

たとえば、運動会。あれは「たいてい」の人たちにとっては楽しいものだろうが、強制的に参加させられることで苦痛を味わっている人がいることを、どれだけの人たちが理解し、それを運動会という制度の改善に組み込もうとしているだろう。生まれつき、あるいは病気になった結果、片足をちょっと引きずってしまうような子供がいたとき、その子供を50m競争に参加させないという形もあるけれど、それも劣等感を生む。しかし強制的に参加させれば、びりになる苦痛は耐え難い。みんなで応援してあげて、一生懸命な姿に拍手をおくり、特別扱いすればいいのかどうか。それで喜ぶ幸せな子どもばかりだろうか。そもそも50m競争は、身体能力がある一定以上あることを前提にしている。主催者の側からすれば、それは生得的能力ではなく、獲得的能力、つまりどれだけ練習をしたかを反映するものであって欲しいと考えるだろう。しかしそうはなっていない。

 

もうひとつ試験を取り上げる。人間の知能は生まれつき皆同じだと、どの心理学者が語っただろう。知能は多面的であり、それぞれについて生得的に各個体は異なる水準である。これが現在のまっとうな心理学者の考えているモデルだろう。生まれた時にはみな同じ、と仮定しているからこそ、あるいはその仮定を乱暴に適用しているからこそ、人間の能力差は遺伝ではなく獲得されたものなのだ、ということになり、各個体の努力やそのベースとなっているモチベーションの強さが原因だという図式を持ち込むことになっている。だから成績が悪いのは努力をしないせいであり、お勉強をしないせいであり、当人が悪いのだ、とされてしまう。だから(最近の小学校などでどうしているかは知らないが、以前は)テストの点数を読み上げたり、成績順に名前を張り出したりという差別的なことが公然と行われていた。

 

まとめ。身体能力も精神能力も、能力には生まれつき差がある。平等ではない。他方、権利は平等としていこうという合意が普及してきている。ただし、その扱い方にはまだ不均等な部分があり、◯◯と△△とその関係性についての概念整理はきちんとできていないし、それに関する社会的合意も明示的にはなされていない。

 

とかく感情論がでてきてしまいやすい平等概念だが、まあ、見方によってはそれも結構。感情というのは大切な精神活動だから。でも社会を感情で運用したら、それはどえらいことになる。社会というのは、やはり効用を前提とした理性で運用すべきものだからだ。

 

この文字数と、この時間では、やはり書ききれない。時間をかけて原稿を書いて、本でもだしてみるべえか。 






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Last updated  2010年05月31日 08時31分53秒
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