FelliniのLa Dolce Vitaについて、goo映画http://movie.goo.ne.jp/movies/p12989/story.htmlでは「打ち上げられた怪魚は、腐敗し悪臭を放ち、彼らの姿そのものだった」などと書いてある。いや文芸作品にはよくある比喩や象徴表現というやつかと思うけど、僕はこの思わせたっぷりな表現や、その深読み風の解釈が嫌いだ。
特に、多様な解釈もできるし、即物的に把握することもできるこの怪魚については、可能な読み方の中から特定のものだけを意図的にくみ取る、あるいはそれを予期してくみ取らせようとする意図が気に入らない。
むしろ、その後で海岸から人々が去って行くときのシーンに、その肝心の怪魚の姿が消えているという、おそらくは映画制作上のミスを楽しんでしまう。
海岸にできている川の向こうに海の家の少女がでてきて、その呼びかけに応じずに人々の方に歩いて行く主人公の姿を、清潔で純粋な世界と切り離された猥雑なローマの生活にまた浸り込んでしまう主人公、として描きたかったのかもしれないけど、僕的には、ああ、この清純そうな顔をした少女だって、あと数年すれば淫らな生活になるかもしれないし、それならいっそ彼女のもとに走って、彼女の性的な成熟を助けてあげるのもいいのではないか、などと考えてしまう。
要するに、作者の意図をくみ取るという受動的な姿勢が嫌いなのだ。それで余計なことを考えてしまう。まあ自己中心的な作品の受け取り方なんだけど、それでかまわないと思っている。作品は作品。そこから作者の精神世界に入り込みたい人はやればいい。そんなもん、どうでもよくて、自分にとってどういう意味が見えるかだけを考えたければそれでもいい。
そんな感じ。Felliniの作品は、彼の思い込みが強く入っている。81/2もそうだ。それを後生大事にしたければするがいい。