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もじゃりんの日記

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2010年06月12日
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マスメディアの情報操作と「概念化と自分の言葉」

カテゴリ:カテゴリ未分類

Orwell, G.の小説もそうだけど、未来社会を描いた映画や小説にはICTを活用した管理社会に関するものが多い。ICTがそれだけの潜在力を持っていることに、先駆的なクリエイター達が気がついていた、ともいえるし、いや、誰だってそういう怖さは感じていたからそれらの作品がヒットしたんだ、ともいえる。たしかに作る人がいて、それを読んだり見たりする人がいるからSF作品だって流通する。その点から考えれば、別に管理社会の恐怖は、アジテーターがいなくたった皆感じていることかもしれない。ただ、そういう恐怖を集約する「場」が必要なので、そのような作品が評価されている、ということなのだろう。

 

むしろ恐いのは、なんらかの形で「場」を作ろうとする意図の方だ。僕らは「場」ができると、あ、ここに自分の感じていることが表現されている、と喜んでしまいがちだが、まだできていない「場」について、こういう場が作られるといいのにな、と思うことは少ない。潜在的な欲求のままでいる想念というのはうじゃうじゃとあるようだ。そのなかから具体的に「場」という形をとったものができてくると、僕らはそこに吸い寄せられてしまう。その「場」が、マスメディアによる情報操作によって作られることが多い、だから注意しなければ、ということだ。もっと自分達の意識の裏側に敏感になり、何が本当に問題なのかをつきとめ、それを概念化し、言語化しなければならない。他人によって作られた言葉を使っているだけで満足してはいけないだろう。

 

そういえば、宗教というのは歴史的に情報操作を行う場だったといえる。人々の救いをもとめる気持ちを外化するためには、教典が必要だったし、祈りの場やシンボル類も必要だったろう。そうやって場が構築されていると、人々は「安心して」そこに帰依することができた。そうやって民衆が安定してくれれば統治者も安泰。というわけで宗教は政治にも利用されてきた。

 

時々自分の言葉で語ろうとする人間がでてくると、「異端」という便利な言葉を使ってそれを排斥し、「場」の社会的強化が図られた。

 

それは宗教に限らない。消費税に関するメディア操作だってそうだ。テレビを見ていると、いま何故消費税を上げようとしているのか、という話が復活してきた。ここが「いま何故消費税を上げなければならないのか」となると、微妙な違いだが、特定の立場を前提にした政治家の発言となってしまう。「上げようとしているのか」だと他人のことという感じに、ちょっと距離を置くことが出来る。今の似非中立的マスメディアが取りたがるスタンスだ。

 

そもそもマスメディアの似非中立的スタンスをもっと非難する「場」があっていいだろう。いちおう言論統制は「ほとんど」されていないという現在の日本なのだから、ネット(一昔前だったらミニコミという言葉-もう知られていないか-だったけど)で語られていい。ただし、他人のコピーを語る人たちが多いから、しかもその検索して出てくるその数の多さが「世論」のように見えてしまうから、そして数の多さが一種の安心感を生むから、ネットの世界も気をつけないと誘導されてしまうことになる。

 

ただ、言論統制に近い動きもあるようだ。つい先日の映画上映中止騒ぎなんか、あれはきわめて良くない動きだと思う。どんな映画であれ、それが反捕鯨であろうと、残虐なものであろうと、人権無視であろうと、非民主的なものであろうと、感情を逆撫でするものであろうと、自分達の日常生活の安定基盤を揺るがすものであろうと、「それはそれ」として受け止める土台があるべきだと思う。

 

概念化と自分の言葉の基礎には、自己確立がなければならない。その途上にある人々は、多様なスタンスを咀嚼することで自分のスタンスを確立していくことになる。そもそも人間は他人の模倣によって学習し、自己を形成しているからだ。自分の中から他人の影響をまったく排除してしまうなどということは無理。だから哲学の歴史においても、他人を批判するという形で他人をまずは受容し、そうやって他人を利用して自己を確立してきたのだ。 

 

そうやって自己確立をするときの基本的スタンスは「注意」だ。ともかく外部から情報を摂取するときは、それがどれだけ参考になるポテンシャルを持っていようとも、注意する必要がある。これは食べ物を食べるときに、腐っていないか、変な成分が入っていないか「注意」することと似ている。外部から自己に何かを取り込むときには「注意」が大前提だ。

 

そうやっていくうちに、その「注意」をしているコアの部分としての自我が徐々に形成されてくる。別に二十歳で成人しましたからといって一気に自我が成立するようなものではない。自分の言葉で語っているつもりで他人の言葉や概念のコピーを生み出しているだけのことが多い、そういう注意も必要だ。

 

この話はとても重要だし、まとめて本にでもした方がいいかもしれないけど、ともかく、朝、頭がクリアなうちに書き留めておくことにする。 






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Last updated  2010年06月12日 07時38分42秒
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