クラシックのCDを1000枚か2000枚聞いてきて、その中には無論現代曲が多のだけど、その印象として、19世紀あたりまでのクラシックの名曲というのは、結局のところ、クラシック名曲集40枚とか80枚に収まる範囲なのだなあ、と改めて思う。不思議なものだ。それが人類の能力の限界なのかもしれない。
ところで、作曲家の圧倒的多数が男である理由、などという話、良く話題にはなるけれど、女にはそこまで単純になりきれない理由があるのではないだろうか。女を形容すると「しぶとさ」とか「なまぐささ」とかの形容詞が浮かんでくる。それが良く現れれば「しなやかさ」だったり「なまめかしさ」だったりするのだけど、いずれにしても出してしまえばおしまいの男と違って、子供を産んで育てる(育てる方については種による違いもあるが)という性に帰因する何かしら男と違うものがあるのは明らかだと思うし、それが男的に仕事一途に生きる単純さを阻害しているようにも思う。女の仕事は生物学的には産んで育てることだから、それはそれで構わないとは思うが。
ただし、近現代には生物学的な性からの脱却を図ろうとする女は増えている。それはそれで構わないし、それが所謂社会的進出という形をとるのも結構なことだ。ただ、そうであっても先に形容した「女の特質」あるいは「女のさが」というものからは抜けきることができないように思う。しかしそれは男との異質さではあるものの人間としての限界ではないと思う。特質、ということだろう。
生物学的な性を社会的な役割に固定させてきた歴史は反省すべきものだけど、特質としての性は依然として残るのだ、といえるだろう。
メイラックス飲んで眠たいのだけど、寝床から起きてきて書いた。